日常のメモ

ツイッターでは書けないことをメモしよう、そうしようくコ:彡

 

「○○さんは、物事の本質が見えてないよね。あ~あ、だから卒論出来ないんですよ(笑)」

 

ずっと前に社員から言われた何気ない一言がずっと頭のすみっこに残ってた。

でも確かにあの時、「なるほど」と納得させられた。

 

なるほど確かに、私は本質を理解できていないのかもしれない。

 

 

 

 

今日も先生から個人指導()があった。

内容は卒論について。

他の大学はどうかしらないけど、うちの大学は自分のゼミの教員とマンツーマンで卒論をすすめる。

これがなかなか進まない。

なんでかはわかってる、教員と話が噛み合っていないから。

その理由もなんでかわかってる。

私が自分の卒論の”本質”をわかっていないから。

”本質”を理解している先生は卒論の進み方を教えてくれるけど、”本質”が理解できない私はどうしても”本質”である結論とはちょっとずれた内容で書き上げた論文を先生に渡す。

 

私が”本質”を理解できていないことを知らない先生は

「ほら、また。そうやって人とは違う事をしようとする。それは逆に遠回りだよ(卒論終わらないよ)」

と言ってくる。

私は先生がどうしてそんなことを言ってくるのかわからなかった。人とは違う、個性を出してやろうとか、オリジナリティ重視とか、まったく考えていなかった。

むしろ先生よりも卒論早く終わらせたいっていう気持ちは強かったと思う。

 

”本質”について意識し始めた今なら分かる。

わたしは、”本質"が理解できていないばっかりに、

結論と少しずれた解釈のまま内容を書き進めていたからだ。

結論がわからないまま書き進めると内容がちがってくるのも当然だ。ただやっかいなのが、少しずれている程度なこと。

先生にはそれが私の”工夫”に見えて仕方ないのだろう。

でも先生、残念ながらそこにすら私はいたってないのです。

なぜなら自分が書き上げようとしている論文の”本質”の解釈がずれているから。

”本質”を理解していてこそ、工夫を凝らし、オリジナリティや個性を表現できるのですよ・・・。

 

 

 

そして、今日の個人指導の最中にふと社員の言葉を思い出した。

私の頭のすみっこにずっと居座り続けていたその言葉がようやく卒論とリンクした。

 

目が覚めるような思いだった。

どうして先生に叱られるのか分からなかった

どうして友人が私の話しに首をかしげるのかわからなかった

どうして社員が「だから卒論がすすまないんですよ」とからかってくるかわからなかった

どうして作文がうまく書けないのかわからなかった

どうしてグループワーク中に、自分だけ友人とずれた答えをもっているのかわからなかった

どうしてこんなにも生きている日々がうすっぺらいのかわからかった

どうして自分の話しにこうも説得力が無いのかわからなかった

どうして一生懸命何かを伝えようとしてくれる言葉が自分にまったく響かないのがわからなかった

 

そして悲しかった

 

うすっぺらい日々がすぎていった

言葉が全部薄っぺらく感じられた

言葉だけじゃなくて体験したことも全部うわべだけのように感じてしまっていた

 

それは全部、私が本質を見抜く力が無かったのではないかと今では思う。

その言葉が、ものが、人が、状況が、行動が、すべて”本質”となる意味を含んでいるのに

それをただ作業的にこなしてきた結果がこれなんだなと思う。

 

 

今ここで書いた”本質”を、私は都合のよい言葉として乱用しているだけかもしれない。

または、私が何もかもうまくいかない原因はまた他にあるのかもしれない。

けれど今感じているこの気付いた事の嬉しさと絶望を残しておこうと思う。

 

今日はとてもいい日だ。

人生において大切な事に気づけた気がする。

でも気づけた事に満足してる場合じゃない。

だって私はまだまだ本質を見抜けていない、そしてずれている。

社員と本質見抜きゲームをしたけど、やっぱり私は間違った解釈しかできていない。

 

終わりが始まりなんて、人は上手く言うもんだなと思う。

 

終わってない、

もしかして、いままでうまくいかなかった事は”本質”が見抜けていない事が原因なのではないか。

それに気付いたことで私のこころはだいぶ軽くなった、

安心した、嬉しかった。

でもこれからなんだ、

これから本質を正しく見極める力をつけていかなきゃいけない

自分がずれてるっていう自覚をもっとリアルに感じて、気をつけていかなければいけない

安心してる場合じゃない

私はこれを克服するための気付きを今日しただけなんだ。

 

でもこの気付きで、私の人生が大きく変わるのは間違いない。